読んでおわりじゃない本

「夏が逝く」もっともっと続きがあったのに、ほんとに夏はとうに逝ってしまい、秋が来てしまった。

後戻りは、またおいおいすることにして次に進むことにしよう。

夏の終わりに朽木祥の「風の靴」を読み、ヨットのことは何も知らないけれど本当に面白く読んだ。(これについては、またじっくりと書いてみたい)
「光のうつしえ」から、ずっと続いている朽木さんの本めぐりの旅。文章に余韻があり、その言葉の意味をぼんやり考えてしまうので、私にとってはゆっくりの読書になる。

そういった意味では、ちょっと異色かな?と思い、サクサク読み進めた「オン・ザ・ライン」。これは、テニス漬けになる高校生の話。またまたテニスなどわからないのに、でも、やっぱり途中からは、朽木さんの世界になっていき…。夢中で読んでしまった。
ほんとは活字中毒で文学が大好きな高校生が、そんな内面の隠れ蓑にするためにテニスを始める。オールマッスルズ(筋肉と腱だけの体育会系)を装うわけだ。しかし、隠れ蓑のはずがどんどんのめり込んで行き、そこでも自らと向き合うことに。
そして、身体性を通して自らを見つめる体験をする。


私自身は、文学にかぶれてはいたが音楽にも魅せられていた高校生だったので、身体性を全く無視した活字中毒とは少し違ったかも。
音楽は、音を体で感じるので頭より感覚が勝つところがある。
というより、本当のアスリートとはオールマッスルズだけではやり続けていけないように思う。
また、身体性を大事にしない文学って、それも血肉とはなっていかないように思う。
そもそも、それぞれの端っこにいる人間ってどうなん?


そんなことを思いながら、読んでいた。


だって、子どもたちと本を読むのって、「間」は命だし。体がひらいてないと、読めないよなあ。


それにしても、貴之かっこよすぎだ。
その貴之が憧れだったという侃(かん)。
彼は、侃のどこにひかれたのだろう。そこをたどりながらもう一度読んでみたいなと思った。

途中に挟み込まれる、絵ハガキのページが不思議な存在感を残す。
どの人に宛てたはがきかが書かれ、その絵の説明がしてある。
そして、絵の出展表示が。
絵ハガキの枠で1ページとってあるのに、絵は文章での説明だけ。意図的なそのレイアウトが効果を出している。だって、その絵見たいもの。


例えば。

「貴之から梓への葉書

 白地を背景に立つ白衣の少女。
 ロイヤルアカデミー展に落選した後、落選展において
 マネの「草上の昼食」と共に展示されて大きな反響を呼んだ。
 あえて白を重ねたことで、白という色が実にさまざまで
 複雑な表情をもっていることを表す革命的な作品になった。

 ホイッスラー「白のシンフォニー№1  白衣の少女」(1962年)
 油彩、画布。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)」

こんな風に書かれている。

その絵がすごく見たくなった。
なんといまホイッスラー展は、11月上旬まで京都美術館でやっている。

読んだ本の中から、つながりがまた生まれ、ホイッスラーの絵を見たくなっている私です。

夏が逝く①

昨年のいまを読み返したら、自主研修に行けばよかったとつぶやいていた。
そんなのもあってか、今年は家の事情で遠出出来ない分、近場で行けるものには積極的に足を運ぶ夏になった。
もちろん、恒例のお楽しみも。



毎年行く古本市。
今年は前日の雨のせいか、曇り空で暑すぎず過ごしやすかった。やっぱり糺(ただす)の森の木々の生い茂っている豊かさは半端ないのだ。
樹齢何百年なんだろうなあ?

今年買った本は、こんなの。

世界文化社の「森は生きている」。ちゃんと湯浅芳子さんの文章だ。
ずっとこの本を探してる時には見つからなかったのに、昨年地元の小さな古本屋で見つけて狂喜した。そしたら、またほらね。
この1冊は、わが学校の図書室にプレゼントしようかと思って購入。
絵がまた素晴らしいのですよ。
そして、この世界文化社のシリーズは、印刷がとってもきれい。色がいいのかな。

そして松岡享子訳の「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」(こぐま社)。ひとりでいる時にこそ、子どもは成長するという主張を、いろんな文化人の言葉をひもときながら内省することの重要さを説く。このテーマそのものに、ひきつけられた。

こうして、ぶらぶら歩いて手に取って…というのがいいよね。

作家の講演会は2つ。
内田麟太郎さんと、斎藤洋さんのお話を聞いた。
作風も全然違うお2人だけれど、奥にどちらも「少年」が見え隠れしているように思った。
繊細な感性で言葉を紡ぎ出す「少年」と、成熟した「大人」の部分と…。

お盆ナウ

6月に義父が亡くなり、義母を呼び寄せ新しい生活が始まった我が家は、毎日があっという間に過ぎいつのまにか初盆を迎えた。

なので、今年の夏はホントにお盆らしいお盆を過ごしている。
そして、この年になって初めて知ったことが多い。

精霊馬というのだそうだが、まるで子どもの工作のようになすの牛とキュウリの馬を作った。
キュウリの尻尾がほしいがために(それだけの理由で)、トウモロコシを買ったり。(トウモロコシにひげがついてますよね。それ、です)
足は、麻がらを刺して…。
かわいい動物が出来あがった。

すると、じっと見ているのが我慢できない奴が一匹。
キュウリ馬の尻尾をぺろぺろして、あっという間に落としてしまったよ。
そして、お迎え団子も気がつくと2個消えていた…!
あなどれんソラくんでした。

義母に聞くと、子どもの頃はわらで馬を作っていたんだそうだ。

なんかこういうのって、素朴でわかりやすくて、子どもたちも参加しやすくていいなあと思った。

時々、朝の支度が間に合わなくて、仏壇に供えるお義父さんのご飯はバタートーストだったり、お弁当のチャーハンのおすそ分けだったり。
「おいおい」と思ってることだろう。

ウインナー

帰ろうと職員室を出たら、昇降口でY君と出会う。

「ウィンナーがな。」
「うん、うん。(ウィンナーがどうしたん)」
「賞味期限が7月15日でな。」
「うん。」
「これがな、14日やったやろ。」

Y君は、手提げかばんから紹介用紙を取り出して、指差した。
今週初めの図書委員会で、みんなに渡した用紙だ。
6月の選書会で自分たちが選んだ本を、おすすめ本として全校に紹介するために、貼りだしたり本のオビをつけたりするのだ。
委員会だけでは書ききれないので、14日までの課題としていた。

「そうそう、14日までやったよ。」
「(ウィンナーの賞味期限を)見るたびに、思い出すねん。これの締め切り。一日前やろ。」
「そうなん!」

それで、ウィンナーかぁ。
何の話になるのかと思ったら、ちゃんと着地した。
わかったよ。

「それで、書けてんの?」
「う〜ん、ここまでは書けたけど…」と、細かく話してくれた。

「じゃあ、がんばってね。ばいばい。」
「ばいばい。」

Y君が去っていってしまってから、私の頭の中にウィンナーの袋に表示してある賞味期限の文字が、ぱあっと浮かび上がった。
ひとりで、いつまでも笑ってしまった。
靴をはいて外へ出ても、笑いが止まらなかった。

夢のはなし

「図書の時間をおわります。」
あいさつのあと、大あくびしていた女の子がいた。

「Hちゃん、ねむたいの?」
「きのう、めっちゃへんな夢見てん(見たの)。」
「こわい夢?」
「へんな夢。」
「そうなん。」
「ミラクルアイスめっちゃようけ(たくさん)のっててな。」
「全部食べたん?」
「ううん、落ちてしもて、バニラだけがのこってた。」
「ええ〜!!」
「それで、泣いててん(泣いてたの)。」
「そりゃ、疲れる夢やったねえ…。」

それで寝不足だった2年生の女の子でした。

本の話もいいけど、こんな日常のふとした話を聞くの、私は大好きです。

自分だったら

久しぶりに読んだ「シルベスターとまほうの小石」(W・スタイグ)。お相手は3年生。
ロバのシルベスターは、赤い小石を拾う。
その時、小石をひづめにはさみながら、何気なく「雨が降らないかなあ」と思ったシルベスター。すると、突然どっと降ってきた雨。
偶然にしては、その降り方が尋常じゃない。

何度か試しているうちに、どうも小石に体が触っていると魔法が効き、そうでないと効かないことを発見する。

ためしに、いぼよ取れろと願うと、いぼまで取れてしまう。

この本の魅力は、なんといっても瀬田貞二さんの美しくも楽しい日本語訳にある。

「若いシルベスターにも、これほど望みがかなったことはありませんでした。」
いま、手元に本がないので思い出し書いているので一字一句までは合ってないと思うが、例えばこんな調子の文だ。

どうしたら魔法がかかるかを、子どもたちとかけあいながらゆっくり読み進める。触ってるかどうかが大きなポイントだからだ。

この素敵な小石を家族に見せようと、意気盛んに帰ろうとした矢先、不幸にも彼はお腹をすかせたライオンに出会ってしまう。
とっさに「ぼくは岩になりたい」と願ったシルベスター。
そうして岩になってしまった。

スタイグの描き方が、ここからが急がずじっくりと詳細に進む。
いまの子どもたち(多分大人たちの大半も)は、このじっくり読んで世界に入ることが苦手だ。待てないで、結果を知りたがる。
大抵のものが、簡単に手の内を見せてしまい、考える機会を奪っているからかな。
スタイグのような類い稀なるストーリーテラーによる物語は、そんな現状にくいこんでいく力を持っていると思う。

なんと1年間も岩のままで過ごすシルベスター。

そして、ついに両親が「くよくよしてても仕方ない」と、岩のあるいちご山にハイキングにやってくる。
子どもたちの表情が生き生きとしてくる。
「うわっ、来たで!」
「石に気づいて!」
「そこ、そこにあるよ」
そこらじゅうで、つぶやきが聞こえてくる。

その時の、瀬田さんの訳が大好きだ。
「シルベスターは、岩としてはできるだけロバの気持ちをこめながら願いました。」

これ、おかしい!
すごくおかしい。


結末は、一件落着になり、赤い小石は金庫にしまわれる。
親子3人の望みは、「いまはすっかり足りてしまったのですから。」


でもね、子どもたちはやっぱり赤い小石がほしい。
そんな怖いことになったシルベスターを目の当たりにしても、自分はうまくやると思っているから。
自分だったら、岩になんてならなくて、こう願うんだ…って。

それもまた、この物語の子どもらしい楽しみ方だと思う。
私はいつもこの絵本を読み終えたらみんなに、自分が同じ経験をしたら赤い小石を置いておくか処分するかと聞いてみる。
先生は怖がりだがら、処分するやろうな。
同じような子は、少数いる。「そうだよね」とおおいに共感する。
しかし、大半は手元に置いておきたい子だ。

その時の、自分はうまくやってやると言いたげな表情が、お話をひとめぐり経験してきた故のもので、また面白い。
想像することなく浅い感情で損か得かというのでなく、物語をかみしめながらの選択だからだ。

そこに意味があり、それは表情にもあらわれている。

もう6月が終わるなんて

何ヶ月かごとにブログを再開しながら、また途切れ…1年間ずっとそうだった。
昨年引越しがあり、この1年松本の両親が自活出来ないような状況になりいろいろと方法をみんなで考えてきた。
そして春に、ついに義母を京都に呼び寄せ、元気になるのを待って義父もと思っていたところ、二週間前に逝ってしまった。

仕事をしながら介護をする。
世の中にはそんな人たちがたくさんいて、勿論我が家も遠距離介護帰省ををもう何年も繰り返していたし、わかっていると思っていた。
でも、やっぱり実際にわが身にふりかかると、わかってなかったことがたくさんある。
そして、しんどいこともあるけれど、ひとことでは言えないいろんな気づきももある。
まわりの人はいたわりの気持ちもこめて「大変だね」とねぎらってくれるけれど…大変?「大変」、という言葉はなんだかしっくりこない。

そして、年を重ねるってすごいことだ。複雑なことだ。
人間って、奥が深いな…と発見することが多い。

犬を飼って、この年になっていろんな気づきがあり、私もまだ成長するんだなぁ、なんて思ったのだが、さらにその機会がありそうで、人生なにがあるかわからへんなぁ。


梅雨の時期は、「おじさんのかさ」(佐野洋子)を読むことにしている。この間は特別支援学級で読んだのだが、あんまりSちゃんが真剣に聞いているものだから、だんだん言葉が立ってきて、私も読みながら言葉に聞き入る。そんな貴重な経験をした。

おじさんは、かさを大事に思うあまりに、雨がふるとかさを小脇に抱えて走る。「かさがぬれるとこまるからです」。
「え〜、なんで。」といいたそうな、Sちゃんの大きく見開かれた目。そんな馬鹿な…でなはい。このおじさんは、どうするんだろう。猛烈に心配している。
笑うどころではない。
その反応が新鮮で、私もどんどん絵本の世界に入っていった。

この話は、教科書に載っていることろもあるのかな。
どうやって教えるんだろう。
ものにはそれぞれの用途がありますってこと?

それじゃあ、当たり前で、この絵本の可笑しみは伝わらないなあ。

誰かに諭されたわけでなく、雨にぬれてるかさを「だいいち かさらしいじゃないか」と自分で思えたところが大事なんだよね。
いま、子どもが自分で気づく前に「これは、雨降ったときに使うもんなのよ。自分で持ってて、人のかさに入れてもらうなんてしちゃだめよ。」と言ってしまうことが断然多い。

それじゃあ、雨がふったらポンポロロンが確かめたくて…にならない。


自分で、気づく喜びに満たされた絵本だと思うんだ。


それと、後半からかさがどんどん存在感を増してくる。

雨にぬれて、誇り高いかさ。
かさの主体性が際立ってる。

この、さのようこの文章は、簡潔だけど、深い。

お茶とたばこを「のんで」という表現に、いつも子どもたちは「え〜!」と言う。いまはこんな言い方をしないから、すごく不思議に思うみたいだ。
「のんで」に、私はいつも日本語の豊かさ、語彙の多さを感じる。