もう6月が終わるなんて

何ヶ月かごとにブログを再開しながら、また途切れ…1年間ずっとそうだった。
昨年引越しがあり、この1年松本の両親が自活出来ないような状況になりいろいろと方法をみんなで考えてきた。
そして春に、ついに義母を京都に呼び寄せ、元気になるのを待って義父もと思っていたところ、二週間前に逝ってしまった。

仕事をしながら介護をする。
世の中にはそんな人たちがたくさんいて、勿論我が家も遠距離介護帰省ををもう何年も繰り返していたし、わかっていると思っていた。
でも、やっぱり実際にわが身にふりかかると、わかってなかったことがたくさんある。
そして、しんどいこともあるけれど、ひとことでは言えないいろんな気づきももある。
まわりの人はいたわりの気持ちもこめて「大変だね」とねぎらってくれるけれど…大変?「大変」、という言葉はなんだかしっくりこない。

そして、年を重ねるってすごいことだ。複雑なことだ。
人間って、奥が深いな…と発見することが多い。

犬を飼って、この年になっていろんな気づきがあり、私もまだ成長するんだなぁ、なんて思ったのだが、さらにその機会がありそうで、人生なにがあるかわからへんなぁ。


梅雨の時期は、「おじさんのかさ」(佐野洋子)を読むことにしている。この間は特別支援学級で読んだのだが、あんまりSちゃんが真剣に聞いているものだから、だんだん言葉が立ってきて、私も読みながら言葉に聞き入る。そんな貴重な経験をした。

おじさんは、かさを大事に思うあまりに、雨がふるとかさを小脇に抱えて走る。「かさがぬれるとこまるからです」。
「え〜、なんで。」といいたそうな、Sちゃんの大きく見開かれた目。そんな馬鹿な…でなはい。このおじさんは、どうするんだろう。猛烈に心配している。
笑うどころではない。
その反応が新鮮で、私もどんどん絵本の世界に入っていった。

この話は、教科書に載っていることろもあるのかな。
どうやって教えるんだろう。
ものにはそれぞれの用途がありますってこと?

それじゃあ、当たり前で、この絵本の可笑しみは伝わらないなあ。

誰かに諭されたわけでなく、雨にぬれてるかさを「だいいち かさらしいじゃないか」と自分で思えたところが大事なんだよね。
いま、子どもが自分で気づく前に「これは、雨降ったときに使うもんなのよ。自分で持ってて、人のかさに入れてもらうなんてしちゃだめよ。」と言ってしまうことが断然多い。

それじゃあ、雨がふったらポンポロロンが確かめたくて…にならない。


自分で、気づく喜びに満たされた絵本だと思うんだ。


それと、後半からかさがどんどん存在感を増してくる。

雨にぬれて、誇り高いかさ。
かさの主体性が際立ってる。

この、さのようこの文章は、簡潔だけど、深い。

お茶とたばこを「のんで」という表現に、いつも子どもたちは「え〜!」と言う。いまはこんな言い方をしないから、すごく不思議に思うみたいだ。
「のんで」に、私はいつも日本語の豊かさ、語彙の多さを感じる。