自分だったら

久しぶりに読んだ「シルベスターとまほうの小石」(W・スタイグ)。お相手は3年生。
ロバのシルベスターは、赤い小石を拾う。
その時、小石をひづめにはさみながら、何気なく「雨が降らないかなあ」と思ったシルベスター。すると、突然どっと降ってきた雨。
偶然にしては、その降り方が尋常じゃない。

何度か試しているうちに、どうも小石に体が触っていると魔法が効き、そうでないと効かないことを発見する。

ためしに、いぼよ取れろと願うと、いぼまで取れてしまう。

この本の魅力は、なんといっても瀬田貞二さんの美しくも楽しい日本語訳にある。

「若いシルベスターにも、これほど望みがかなったことはありませんでした。」
いま、手元に本がないので思い出し書いているので一字一句までは合ってないと思うが、例えばこんな調子の文だ。

どうしたら魔法がかかるかを、子どもたちとかけあいながらゆっくり読み進める。触ってるかどうかが大きなポイントだからだ。

この素敵な小石を家族に見せようと、意気盛んに帰ろうとした矢先、不幸にも彼はお腹をすかせたライオンに出会ってしまう。
とっさに「ぼくは岩になりたい」と願ったシルベスター。
そうして岩になってしまった。

スタイグの描き方が、ここからが急がずじっくりと詳細に進む。
いまの子どもたち(多分大人たちの大半も)は、このじっくり読んで世界に入ることが苦手だ。待てないで、結果を知りたがる。
大抵のものが、簡単に手の内を見せてしまい、考える機会を奪っているからかな。
スタイグのような類い稀なるストーリーテラーによる物語は、そんな現状にくいこんでいく力を持っていると思う。

なんと1年間も岩のままで過ごすシルベスター。

そして、ついに両親が「くよくよしてても仕方ない」と、岩のあるいちご山にハイキングにやってくる。
子どもたちの表情が生き生きとしてくる。
「うわっ、来たで!」
「石に気づいて!」
「そこ、そこにあるよ」
そこらじゅうで、つぶやきが聞こえてくる。

その時の、瀬田さんの訳が大好きだ。
「シルベスターは、岩としてはできるだけロバの気持ちをこめながら願いました。」

これ、おかしい!
すごくおかしい。


結末は、一件落着になり、赤い小石は金庫にしまわれる。
親子3人の望みは、「いまはすっかり足りてしまったのですから。」


でもね、子どもたちはやっぱり赤い小石がほしい。
そんな怖いことになったシルベスターを目の当たりにしても、自分はうまくやると思っているから。
自分だったら、岩になんてならなくて、こう願うんだ…って。

それもまた、この物語の子どもらしい楽しみ方だと思う。
私はいつもこの絵本を読み終えたらみんなに、自分が同じ経験をしたら赤い小石を置いておくか処分するかと聞いてみる。
先生は怖がりだがら、処分するやろうな。
同じような子は、少数いる。「そうだよね」とおおいに共感する。
しかし、大半は手元に置いておきたい子だ。

その時の、自分はうまくやってやると言いたげな表情が、お話をひとめぐり経験してきた故のもので、また面白い。
想像することなく浅い感情で損か得かというのでなく、物語をかみしめながらの選択だからだ。

そこに意味があり、それは表情にもあらわれている。