なんにも起こってないんだけど
4年生の図書の時間で、新見南吉の絵本を紹介していた。
「ごんぎつね」「てぶくろをかいに」「狐」。
すると、「狐」を見た女の子が、「あっ、これ○○先生が読んでくれてた!」とうれしそうに言った。
「長かったから、毎日読んでくれてたけど、最後までいかへんかった。」
「そうなんや。」
その子の「最後まで聞きたかった。」という気持ちと、毎日読んで下さってたその先生への懐かしい気持ちが伝わってきた。
その時全体の流れとしては、あらすじを少し紹介する程度にとどめる予定だったのだけど、気が変わって「じゃあ、読んだげよ。」と文六ちゃんが家に帰ったあたりから読み聞かせした。
新しい下駄をお祭りの日におろした時に、マッチで下駄の裏をこすっておかないと狸や狐に化かされる。
そんな迷信を、嘘だと思いながらもどんどん気にし出してしまう子どもたち。
自分が狐になってしまったら、お父ちゃんやお母ちゃんは気がついてくれるだろうか。
漁師が鉄砲を向けたらどうなるだろうか。
文六ちゃんの妄想に、お母さんは根気強くつきあい、真面目に返事をする。
子どもの心理をうまく描いた可笑しさがあり、物語の背景には母の愛情がしみじみと伝わる、とてもいい話なのだ。
さて、読み終わったら、何かと一家言を持つ男の子が「なんかあってから、考えればいいのに。」と言った。「だって、まだ、なんも起こってないやん。」
なるほどね。
だって、大妄想の話だもんね。
私は、言った。
「そうやなあ。みんな空想やもんなあ。でも、そうやし面白いんやで。それが、このお話のおもしろいところ。」
「みんなも、ない?たとえばさ、お母さんが帰ってくるのが遅くて、いろいろ想像してるうちに、どんどん怖くなって涙出てきて…実際お母さんが帰ってきたら、全然元気でさ。あの想像なんやったん?…みたいなこと。あるやろう。」
「ないわ。」
「ないない。」
「ほんとかな。」
「絶対あると思うなあ。」
それぞれ思ったことを言い合い、ちょっといい時間だったな。
新見南吉をこのところ読んでいるのだが、なかなか読みごたえがあるのだ。
なんだか、私のなかで八木重吉とかぶってくるなあ。
感性がやたらと鋭く、特に子ども同士のいざこざや触れ合いを描いた「川」「嘘」がやたら面白かった。
「うた時計」も「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」もいいけれど、私は「最後の胡弓弾き」をとる。
ラストにびっくりし、それだから心にずっと残る。
4年生には、まだ難しい。
でも、いつか出会ってほしいと思う。