大人側からか子ども側からか

「はいっちゃだめ」(マイケル・ローゼン/作 ボブ・グレアム/絵 岩波書店)を読んで、考えさせられたことがあった。

高層マンションの中にある公園に、ネジのついた段ボールの家を持ち運んだ男の子。
周りの子どもたちは、興味深々で中に入れてほしくて声をかけるのだが、男の子はいちいち理由をつけて入れてくれない。(眼鏡をかけた子はだめとか、ちびはだめとか)
自分が立てこもっているために、ついにおしっこが我慢できなくなり、段ボールの家を残してトイレに走って行く。
当然、みんなは一斉に家に飛び込む。
帰ってきた男の子は、みんなに言われる。「赤毛の子はだめ!」

泣いたりけったりした挙句に男の子は、ふとひらめく。
赤毛の子も入っていい。眼鏡の子も入っていい。…だって…。」

みんなは叫ぶ。
「だって、みんなの家だから!」
飛び込む男の子。壊れてしまう家。
うれしそうな子どもたち。


子どもの心理が描けている。下読みした時は、な〜るほど、と思ったのだ。

そして子どもたちに読むと、私の予想した反応とは少し違った。


男の子が「あの子はだめ。この子はだめ。」と言い続けていると、子どもたちは男の子に対して「なんて子や!」と憤慨しているのが伝わってきた。実際に非難するようなつぶやきも聞こえる。
そしてみんなが「赤毛の子はだめ」と逆襲する段になると、「当たり前や」という共感も感じられた。
そしてラストなのだ。
ここが、子どもたちにいまひとつ響かなかった。
男の子の発見が、「な〜るほど」につながらないのだ。



現実にはこんなことってあると思う。
子どもたちの理屈で解決を見出していくことがある。
でも、この絵本は子どもたちのなかにダイナミックは変換は起こしてくれなかった。

なぜなんだろうと考えたのだが…。



男の子が「あっ、そうか!」と発見するところが弱いのだろうな。
そういう意味では、子どもの心理を描いていてもつきつめれば大人の側から見た子どもなのでは、と思ったのだ。



子どもが反発しながらもぐいぐい引き寄せられていく絵本ではなかった。
大人の私が納得していても、子どもたちはいまも赤毛の男の子を「勝手な奴」と思ってるのではないか。
わがままだと憤慨しながらも、思わず共感してしまうダイナミズムが足らないのだと思った。



そうしたらどんな絵本が子どもの生理を生き生きと描いているのだろう。
子どもの側からの絵本ってどんなのだろう。



好対照なものがぴったりとは思い浮かばないのだが…。



たとえば、「ねこのジンジャー」(シャーロット・ヴォーク/作・絵 偕成社)。新参者のちびねこが来てから、ジンジャーはおもしろくない。どうしてもなかよくなれない。困った飼い主は最後に、二匹の場所を変えるのだが…ちびねこに用意されたぴったりな小さな箱には、なんと大きなジンジャーが入っていたのだ。
ここで子どもたちは大笑いする。
ジンジャーはちびねこと仲良くしたいから小さな箱に入ったのでなない。小さな箱に入りたくて我慢出来なかったからだ。
その結果、二匹が仲良しになるとしても、最初の動機は違う。

そこに子どもたちは共感するのではないだろうか。
自分だって、似たようなことがあるからだ。



「おっとあぶない」(マーロン・リーフ/作・絵 フェリシモ出版)。
つぎつぎとあぶない「まぬけ」が次々と出てくる。
椅子の足を浮かせる「ぎったんばったんまぬけ」。火であそぶ「ひあそびまぬけ」。
たまに「こんな本を読んだら真似しないか」と心配する声を聞くけれど、子どもはそんなに馬鹿じゃない。自分と距離をもって見ている。むしろ、本の中の子どもが先々に危ないことをやってくれるので、はらはらして後をついていってる感じ。
自分の中の建前やモラルを打ち砕いてくれるのだ。
これも、子どもの側に立った本だと思う。

あと、この本は…。

このピーター・スピアという作家は、私は好きなのだ。「せかいのひとびと」「雨、あめ」「はやいおそい たかいひくい はんたいのほん」などどれもいい。
その中でも「きっとみんなよろこぶよ」(評論社)は、さすがの私でも困ってしまうくらい心臓がばくばくする。
スピアは、しっかり大人。でも、子どもたちを不安に陥れるくらいのエネルギーをもったこわ〜い大人なのだ。
この本は、まだ子どもたちには読んだことがない。


本には、大人の側からと子どもの側からと、両方あっていい。
ただ、その物差しをはかれる自分の感性をもっていたいし、読む対象によってそれを選択出来る目を持ちたいと思う。