古きよき本 いまもよき本

図書室にあるポプラ社文庫をこのところ読んでいる。
最近、昭和の本にさかのぼってばかりいる私。

図書館でも、閉架のものを出してもらってばかりだ。

「のっぽビルのでぶくん」(大石 真)より「へんな一日」

タケシが、朝教室に入っていこうとしてふと廊下の温度計を見ると3度をさしていた。「フン、三度か。三度じゃ、さむいわけだ。」と思ってると、始業のベルが鳴り、三人が欠席だったことがわかる。
「今日は三度だから、三人休んだのかしらん。」
それからその日は、タケシの身の回りに「3」に関係したことが次々と起こる。
次もそうかな、と思うとやっぱり。
その起こったことがいかにも子どもが出会う出来事で、それが面白い。
あるある、こういうことってあるよな…と思わせる。

昭和30年の作品だって。全然、いまも通じる感覚だと思うよ。
こんな話、いまの本になかなかないんだもんな。


「馬ぬすびと」(平塚武二)より「われた茶わん」

われた茶わんが捨てられていて、ひとつのかけらにはラッパふいてる犬の絵が。もうひとつのかけらには、ダンスしているねこの絵が。
茶わんがわれて、二匹は離ればなれになった。

いままでは、ラッパふいてダンスして二匹は楽しくやっていたのに、それがかなわなくてつまらない。一匹だけでは味気ない。

本物の犬に茶わんのねこは「ラッパふいてください」と頼み、本物の猫に茶わんのいぬは「ダンスをしてください」と頼むが、どちらもごはんつぶひとついてない茶わんなんか興味ないとすげなく去られる。

二匹は、あんな犬やねこが本物なら自分たちは絵の中の犬やねこでいい、と思う。


ほんとにかわいらしいお茶わんが、目に浮かぶなあ。
なんともいえない可笑しさと、本物の犬やねことの会話がよい。
一読して、声をあげて笑ってしまった。

もちろん、表題の「馬ぬすびと」は素晴らしいし、それが高じて「玉虫厨子の物語」も読んでよかったけれど、この幼年童話での感覚が私は好きだな。


このふたつの話は、子どもたちに語ってあげたいと思う。
ほんとは覚えて語ったら、もっといいんだけどねえ。