ふたたび  ゲド

先日テレビで「ゲド戦記」をやっていて。
その出来には全然不満足で観ていたのだが、原作と違うと思いながらじゃあ原作を語ろうとするとおぼつかない自分に気づいて、もう一度読み返している。
小学生にすすめる時にも、第一巻「影との戦い」は語ったりするのだが、それ以降はちょっと紹介出来ない。(物語は全5巻と外伝がある。3巻までは1970年前後に出ていて、ずっと時を経て90年に第4巻、2000年を超して第5巻・外伝と出版され話題を呼んだ。)


自分が読んだのは、中学生の時だったかな。
人やモノには真の名前があり、それは自分のなかで一番大事にしなければならないこと。簡単には外に出してはいけない。
でも、相手に助けを求めたり、あるいは理解してもらおうとする時は、その真の名前を差し出せるかどうか。それは、結局自分の懐が試される。
驕ったゲド(ハイタカ)にはらはらしながらも、一つ一つをつかんでいくところが面白かったのと、出てくる脇役(師のオジオンであったり、友人のカラスノエンドウであったり)の魅力が大きかったのだと思う。

でも、大人になって読むと、これが深いんだよねえ。
おそらく、影を追いかけていったあたりは、中学生の私は表面的なストーリーしか追いかけていなかった。
でも、じっくり読むとつらいし、人生にはこういうことある。
そんなつらい旅に同行してくれるカラスノエンドウは、なんて人なんだろう。
私には、こんな人がいるだろうか。
また、こんな人になれるだろうか。

なんてことをいろいろ考えて読むと、ああ、子どもたちにまた違った切り口で話をしようと思えてきた。

結局は、自分が感じないと、本の魅力なんて伝わらないものなあ。

それで、いま第2巻「こわれた腕環」を読んでいるのだが、またこんな箇所に出会う。
これ、大人の話やんなあ!
深いなあ。

「彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。坂道をのぼった先に光があることはわかっていても、重い荷を負った旅人は、ついにその坂道をのぼりきれずに終わるかもしれない。」


自由は、選択すべきもの。
その言葉をかみしめる。