しってる、しってる!

「さいごのさいごのなかなおり」がよかったので、ほかの三田村作品を探しに図書館へ行くと、「きつねのかぎや」シリーズ(あかね書房)が面白かった。
そして、そのなかに「地獄のえんま帳」というのを見つける。

「三田村さん、この題材好きなんやな…」
読んでみるとやっぱり面白い。

霊界について知った?2年生だから、この本はすぐなじんでくれるだろうと思い、選ぶ。

さて、図書の時間「今日はなにかな…」と、この本を手にとると、
「あっ、このまえのつづき?」
と次々に声が飛ぶ。

「違うねん。でも、同じ作者の人よ。」

読み始めると、「あの世」「この世」「えんま大王」「えんま帳」…とみんなにとって、もちろん知ってます的な言葉が並ぶ。

「知ってるか?」
「知ってる!」
「わかってるか?」
「わかってる!」

わざと、聞き返す私。
「当然、みんなは知ってるやんな〜」という感じで。

「知ってる、知ってる。」とうれしそうな、子どもたち。

こういった低学年の子どもたちの様子を見るたびに、反芻する喜びって確かにあると実感するのだ。

大人は、すぐいろんなたくさんのものを次々に与えようとするけれど、子どものなかに根付いていくのはもっと遅々とした歩みではないかと思う。
そこをさらっといくと、案外子どものなかには上澄みしか残らないのではないか。

「もういいから、新しいの読んでほしい。」「またか、同じの。」とは、言わないのだ。

少しだけ色合いを変えて、ゆっくり進んで行く。

それは、工夫なく同じものをずっと差し出すのとは全然違う。

ただ、この本のえんま帳と、前の「さいごのさいごのなかなおり」のえんま帳の描き方が少し違ったので、そこは補足しておく。

「この前は、ブル船長とコリー博士にそれぞれ1冊ずつ、えんま帳があったやろ。今度は、ちょっと違うよ。
大きいえんま帳みたいよ。そこに1ページずついろんな人の一生が書いてあるんやて。
ある人が死んだし、鬼がおしまいって最後に書こうとしたら、ページを一枚間違えて全然違う人に書いてしもたんやって。」

えんま帳は、えんま大王の玉座の後方の金庫にしまわれている。
鬼は、なんとしてでもその間違いを正したい。
死ぬはずのない犬の女の子を死なせてしまってはならないからだ。

そこで、鍵のかかった金庫をそっと開けるには、「きつねのかぎや」が必要というわけ。


この日は、例によって「ああ、どうなるの」というところでつづく。

「読みたいなあ…」
カウンターの本を手にとり、ちらっと開けそうになる男子に「楽しみがなくなるから」と許さない私。

地獄や、血の海や針山…口に出すと、こんなの読み聞かせしていいんですか、なんて声が聞こえてきそうだ。

でも、これは味付けであって、本質ではない。
子どもたちの興味をひく大きな要素ではあるけれど、本質は別にある。だから、私は子どものしつけに「地獄」絵本をつかうような発想は大嫌いだけれど、怖がりながら面白がる題材としてはむしろ好きだ。

その奥にあるものが、はだかの人間を描いてるからだ。

こわい話なら、何でもよいわけでは絶対ない。

こわい話に、子どもはドキドキし、時に自分のこっそりした悪いことを思い出し、怖くなるのだ。

そこに共感してないと、子どもだけ突き飛ばして怖がらせることになってしまう。

ということを考えながら、毎日やっている。