若い感性にふれて
最近2人の若い先生の感性に触れ、いいなと思えることがあった。
まず、後藤竜二の「1ねん1くみ1ばんゆうき」を2回に分けて読み聞かせしていた時。
子どもたちのうしろで聞いていた先生は、その後で私にこう言った。
「ぼく、子どもの頃にこのシリーズ好きでよく読んでたんですよ。その時は、黒沢くんってなんちゅう奴やと思ってたんですけど、いま先生の読むのを聞いてたら、黒沢くんって、案外いい奴やんか、って…。子どもの時は、わからんかったなあ。」
思わず私は、「そうです、そうです。大人だから、そう思えるんですよ。」と言った。
好き、とも違う。
嫌い、ではない。
でもひきずられてしまう、吸引力をもった黒沢くん。
子どもらにとっては、どこか不可解な子ではないのかな。
どんなにやんちゃな子でも、みんな自分はいい子になりたいと思っているから、意識のなかでは黒沢くんになりたいとは思わないのだ。実はとってもひかれていてもだ。
大人は通り過ぎてきた道だから、黒沢くんがいい奴だとちゃんと言葉に出来るが、多分子どもはそうは言わないんじゃないかな。
面白い奴、とは言っても。
おそらく何にひかれてたか自覚出来るのは、もっともっと後なのだ。
私は、そう思う。
それを言語化しない方がいいと思う。
子どもの心のなかで寝かせていたらいい。
大人になって抱いた、そんな気持ちをそのまま語るその先生が、とってもいいな、と思った。
本の世界を受け止めてる時は、ひとりのただの人になっている。
若いっていいなと、思った。
それから、お米についての調べ学習の本紹介のあとで、お米つながりで岩崎京子の「たにし長者」を読んだ時のこと。
たにし(!)に嫁入りし、いつも帯に旦那をはさみ出かけていた嫁さん。楽しげに夫婦で話すが、まわりには嫁さんしか見えないから、みんなは気がふれてしまったと思っている。
ある日、神社にお参りしにきたた嫁さんは、たにしを鳥居の前に残していく。すぐに戻ってきたが、たにしはいない。
カラスに食われてしまったのかと動転し、そばの田んぼにつかりたにしを探し回る嫁さん。
みんなは、やっぱりおかしくなったのだと噂する。
すると、そこにりりしい若者が…。
娘の真心に触れ、たにしが人間になったのだった。
そして子どもも授かり、たにし長者として幸せに暮らしたという。
みんなは、たにしと結婚出来るか…と、子どもたちとやりとりをしたあと自由読書になった。
そのあと、担任の先生と話していたら、すてきなことを話してくれた。
「たにしかどうかよりは、お嫁さんが人から変わってるとか頭がおかしいのではと言われても、全然動じないですよね。それが、すごいなって。私は、そこまで貫けるかな…と思うと…。」
いい見方だなあ、と聞いていて思った。
民話だから、その嫁の心情を詳細には書かれていないのだが、長野ヒデ子の絵も臨場感があり、嫁さんがいなくなったたにしを一心に探す姿は胸にくる。
本の世界のゆたかさが、ふと若い先生たちの感性を揺さぶったのならば、それはとても嬉しいことだなと思った。
いまの学校でおつきあいする人たちのよいところに出会えたことが、うれしかった。
印象は、触れ合っていくごとに変わる。
知り合っていく度に、いろいろと感じれるといいな。
心やわらかく、よい意味でふるえていたい。