物語がどうひろがっていくか
3年生の先生と話していて、おもしろかったこと。
そのクラスでは、いま蚕を飼い始めている。
いまは針の先っぽほどの小ささなのだそうだが(私は残念ながら、まだ見に行けてない)、小さい蚕を指して「あ、チンコロリンや!」と子どもらが言うのだそうだ。
先日読んだ「ブンタとタロキチ」に出てきた、<うそムシ>のチンコロリンのことだ。
あの時、読み聞かせが終わったら図書カードを窓際に並べた先生が、「それではカードを取りに行きなさい。さ、チンコロリンの班から。」と言った。
1班の子どもたちは、わぁ〜と笑って「え〜、ぼくらの班、チンコロリンなん?」と言って、2班以降のの子らは「じゃあ、私らは?」と言い出して、むしろ言って欲しい感じに盛り上がっていた。
そんな下地があったのだと思うのだが、教室のなかでまた「チンコロリン」が出たことが、私には本の世界が言葉遊びにまでひろがっているようで、とてもうれしかった。
図書室のなかだけでは、その後の広がりは見えないことが多い。
こうして、たまに先生からその後のエピソードを聞かせてもらうと、本の世界と日常がつながっていることに喜びを感じ、疲れもふっとんでしまう。
この子たちが1年生の時から大好きな「八方にらみねこ」を、今度読んであげようと思う。
これは、みけねこの修行の話としてやまねこさまが印象が強くなってしまうのだが、もともとは蚕を食い荒らしてしまうねずみを退治したいねこの願いが発端なのだ。
蚕を飼ってるいま、またこのお話を違った角度で感じてくれるだろうか。
じいさとばあさの、毎日の蚕の世話の大変さや、大変だからこそねずみに食われてしまう無念さを、少しは実感をもってとらえられるだろうか。