雪の日 読書

「絵が描ける子 描けない子 児童画教室20年の観察から」(こきかおる/著 サイマル出版会」を図書館で借りて読んだ。
もう30年も前に出版されたもので、当時の年齢はなんと、いまの私と同じくらい。でも、写真のこきさんのお顔のりりしく知的で大人らしいこと。いつまでもぼんやり夢の中のような自分の表情とは、えらく違う。
ネットで調べてみたら、絵画教室をもう10年されたあとに染色デザインの道を極められお仕事にされたらしい。去年に「思い出の花たち むさし野ウォーキング」という本も出されているので、いまもお元気なんだな。

たくさんの子どもたちの絵や、教室での実例などをあげて、こきさんがくりかえし伝えられているのは「子どもが描くこと=生きることは、内からのエネルギーがつきあげて行動になること。そのエネルギーとは、主体性に支えられていなくてはならない。」という思いである。
主体性が育つとは、どういうことか。
教育のなかで、子どもに添う者はどういう覚悟でかかわっていくのかという大きな命題を、くりかえし考えさせてもらったようで、とても興味深く読んだ。古さはまったく感じなかった。
むしろ30年前に危惧されていたテレビの問題は、いまやゲームや携帯にも広がりもっと複雑になっている。そして車の普及で路地で遊ぶ子たちが危険にさらされているという指摘は、車だけでなくいまや知らない危ない大人を避けるため「子どもだけで遊ぶことが出来ない」ような社会に進化(退化?)している。

読みながら私は、子どもをめぐるいろいろな社会問題をいつのまにか仕方ないものとして受け止めていないだろうか、と考えたりしていた。

こきさんの気概を感じるひと場面がある。

様々な色紙のなかから好きなのを3色選びなさいと、子どもたちに言うこきさん。大抵は競って好きな色を選んでいくが、なかには「どれでもいい。」と受け身な子がいる。
断じて自分が選んで渡すことをしないこきさん。
「どんな陳腐な配色でも構わない、自分がそれを欲しいと思い、臆さずに選んでいけることが重要」と思うからだ。
そして、「ヘタクソな絵を臆さずに描けるかどうかということと同じ」で、「人間の主体性にかかわる問題で」こきさんが「最も大切にしていること」として語っている。

きっと(こんなこと描いて怒られないかな?)(みんなと描き方が違う)…こんなことには、こきさんは全然平気で悠然としておられるのだろう。それは、子どもたちにも伝わってるに違いない。
しかし、先にあげた主体性を放棄したような場面では、てこでもひかない姿勢の奥にあるものも、おそらく子どもには伝わるのではないだろうか。

同じように大事だとわかっていながら、時々つい「3色」を選んでやっている私自身を省みて、まだまだだなと思った。
こんなものは、形だけ真似ても意味はない。

私にとっての譲れないもの。
子どもが本当に主体性を獲得していくのに、通らなければいけない道。
読み聞かせや読書指導のなかで、あるいは子どもの表現活動(人形劇であったり、工作であったり)のなかで、何を「ここ一番」と決めるのか。

もっと、深く考えてみたい。
そして、口に出して語り合わないと、と思ったのだった。

美術の分野はただ鑑賞者である私にとっては、「どんな手法で描かせるか」という章も、とても面白かった。
思いがあっても、方法を身につけなければ表現出来ない。
造形を通して「感覚」と「論理性」を養う。
ものが出来ていくまでの順序を知る。

ああ、美術の世界でもあるんだな。
なるほどな。

だってハサミの使い方や彫刻刀の使い方は、だって、そうだもんな。色の合わせ方だって、そうか。

感覚(感性)のふくらみを大事にしながら、適切に方法を知っていくこと。ここで、あらためて自分のしている仕事との共通点に気付いたのだった。

ただし。
この本も、古本でしか手に入らないようだけど。
興味持たれた方は、図書館で探してみてくださいね。