思い出ばなしと本

先日娘と思い出話をしていて、ある子のことになった。
その子は娘が小学生の時に、うちの近所に住んでいた同級生の女の子だ。
途中で引っ越していったけれど、低学年の頃は同じクラスで家にもよく遊びにきていた。
ずいぶんユニークな子で、家で私が接している分には天真爛漫な可愛いところもある子だったが、子ども同士のなかでは天真爛漫を通り越し困っていた面もあったようだ。
郵便局の花壇に咲いている花を見てきれいだな、と思った時には、もう抜いて手に持っている。
この人が好きだなと思ったら、男女関係なく抱きついてキスまでしている。
思うことと行動することが完全に一致してるような子だった。

でも、なんだか憎めない可愛いところがある子で、私は嫌いじゃなかった。でも対等な友だち関係で、困ったことになるのは、それもわかる。

私はもう覚えていないのだが、娘は私に編んでもらったマフラーをなくしたことがあるそうだ。
そして次の日学校に行くと、その子が娘のマフラーを首に巻いていたのだとか。
娘は「私も、うれしくてみせびらかしたんだと思う。Hがマフラーしてきた時はびっくりしたわ。」
と言っていた。

そうそう、あの子らしいなあ。
私たちは、まるいほっぺのあの子を思いだし、少し笑った。
隠すんじゃなくてマフラーまいてくるところが、いかにも「らしい」のだ。


家に遊びに来た時、夕食のカレーの準備をしていた日があった。
その子は帰るのが嫌で、食べたくなって「いいなあ。いいなあ。Mちゃんの家のカレーを食べたいな。」と言い始めた。
私が「いいよ。お家の人がいいって言ったらね。電話してごらん。」と答えた。
その子はうれしそうに家に電話をかけ、こう言った。

「もしもし、あのね、Mちゃんのママが晩御飯カレーだから食べていきなさいって言うんだけど、どうしよう。」


私と娘は目を合わせて、びっくり。

電話を切ったその子は、すました顔して「いいって!」。
そんなこともあったな。懐かしいな。


「どうしてるやろ。ちゃんとやってるやろか。」
つぶやく娘。
そうね。案外大人しい娘さんになってたりして。
それとも、あのまんまの我が道をゆく子かな。
さて、うちのお嬢さんはよそから見てどうだったんだろうと、いまになって冷や汗かいたりして。

今日は娘の誕生日。あれから大きくなったもんだ。
ということで、マフラーの本ときかんぼの女の子の本を。


「たろのえりまき」(きたむらえり/作・絵 福音館書店
こぐまのたろは、お母さんにえりまきを編んでもらった。
はしには、ちゃんと名前も書いてある。
ところが、うさぎのなーちゃんとそりで遊んでいるうちに風でえりまきが飛ばされてしまい…。
赤い色を目印に、たろとなーちゃんはえりまきを探すのだが…。

きたむらえりさんの素朴な絵がなんともよくて、北海道出身らしい自然と動物との共存が無理なく描かれたお話。
赤いものを探してたどりついたら、ななかまどの実だったところが特に好きだ。
くまのお母さん、うしのお母さんのどちらもとても好感のもてるお母さんだ。




「きかんぼのちいちゃいいもうと」(全3巻)(ドロシー・エドワーズ/作・絵 渡辺茂男/訳 酒井駒子/絵 福音館書店

きかんぼでわがままな妹を持った姉が語る形式をとったこの物語は、誰でも思い当たる情景がいっぱいつまっている。
また、自分が姉か妹の立場かで、また感情移入の方向が違うかもしれない。
酒井駒子さんの絵が、またこの愛すべき「きかんぼのちいちゃいいもうと」を余すところなく表現していて見飽きない。
妹の個性があんまり際立っているので、ついそこを語りたくなるのだが、私はこのお姉ちゃん、がんばってると思うね。だって、こんな妹そばにいたらがんばるしかないもん。
お姉ちゃんをぎゅっと抱きしめたくなる本でもある。

私は、2巻「おとまり」のなかの「本の中の小さい男の子」が好き。
このなかで、ちいちゃいいもうとが最後にしたことをどう受け止めるか、子どもにかかわる者にとってはとても大事なことのように思う。なぜしたのか、ということがわかる、いやわかりたいと願える(だって日常のなかではわからないことの方が圧倒的に多いのだから)自分でいたいと思う。