思いはみえない でも

大震災の起こった日、私は心が完全に折れていた。
それは大震災だからではなく、自分の事情で。

テレビで大惨事を見ながら、驚き涙が出そうになり、新聞の大見出しが怖く思えるくらい黒々としていた。

でも、恥ずかしいが私は、自分のことで精いっぱいだった。

人間ってちっぽけなんだなと、つくづく思った。

(人間、じゃないね。私が、ですね。)

きっと、私は後年になって、この震災のことが出るたびに、いまの苦しさも思い出すのだろう。
大きな大きな、大きな大震災と、小さな小さな小さな私の心のなか。

被害に会われた方たちのあまりの大変さに、言葉を失ってしまいそうになる。私に出来ることはなんだろうか。
ほんとうは、小さな心の傷にうずくまっている場合じゃない。


でも、やっぱりまずは自分の回復と、日常をしっかり生きようと思う。
小さい私に見合ったことから、やっていくしかない。


いま、テレビで毎日のように流れている「思いは見えない でも思いやりは見える  心は見えない でも心がけは誰にでも見える」という、あれ。
言わんとすることは、わかっているつもりだ。
思いがあるなら、自分なりに形にして動いていこう。
そういうストレートなメッセージだ。
こんな考えもしない大惨事が起こったいまだからこそ、流すべきと思われたのだろう。

でも。

思いやりや心がけって、やっぱり見えないと思う。
見ようとする人にしか見えない。
また、思いやったりこころがけてても、わかってもらえる時ばかりじゃない。
誰にでも見える、じゃなくて、誰にでも見えないから見ようとしよう、なんじゃないかな。

わかってもらえなくても、「思いやりたい」「こつこつこうしたい」と決めてやり続けるのは、誰かに見てもらうためじゃない。相手にただしてあげたいからなんじゃないかな。そうでないと、見えないから腹が立ったり、見える相手だけにしてしまうことになったら?


自分でこうしようと、決めること。

また人知れずそう決意した人の心が見えること。

それは、すごく難しいことだ。

このメッセージは、いまの私には、強すぎる。
「誰にでもできる」という言いきりが、立ちはだかる壁にように感じしまう。

でも、見えるような自分でいたいって思うし、不器用でも自分で考えて決める人間でいたい。

あのコマーシャルの小さな異和感から、こんなことを思った。