わかってなかったな

棚の掃除をしていたら、娘が小学校の授業で作った絵本が出てきた。
小学校中学年の頃なのかな。
みな共通の4種類の印刷された絵があり、それを絵本用に作った冊子に印刷されている。
子どもたちは、その絵を見ながら自分なりのお話を作っていくというわけだ。
その絵本を読んでみたら、なんというかいかにも娘らしいのだ。



娘は、中川李枝子さんの本が大好きだった。
「いやいやえん」からはじまり、「らいおんみどりのにちようび」「かえるのエルタ」「なぞなぞえほん」「たんたのたんけん」「森おばけ」「たかたかやまのたかちゃん」…3年生くらいまでに、本当にたくさん読んだ。
そして、高学年になり「パスワードシリーズ」(青い鳥文庫)以外はピタッと読まなくなり、いわゆる「家に本が山のようにあり」「両親とも本好き」な家庭であるのに、本には見向きもしない思春期を過ごし成長していった。

そのことで私は娘に「本を読みなさい」と言ったことは、ほぼない。
いつも人に囲まれほがらかに過ごしている子だったし、身体を動かすことも好んだが、手芸など手先を使って創ることも楽しんだので、小物のクラフトや編物、洋裁などは高校生くらいまで一緒によくした。

洋裁を仕事としていた母に、私自身が幼いころから創作意欲や独創性を評価されるより、仕上がりの丁寧さを指摘されることを繰り返して大人になったため、我が子とそのようなことを楽しむ日々がくるとは思っていなかった。
「自分は下手」から出発しているので、娘にもいばる要素は何もなく、仕上がったものに2人で感嘆する幸せにひたっているだけでよかったのだ。

大学生のいまになって、サークルの仲間にすすめられたからとか、なんとなく読みたくなって…と本を手にしている姿を見て、驚くこともあるのだが。


それで、私が手作り絵本を見て一番何を思ったのかというと。

つたない文章のあちこちに、まぎれもなく娘が顔を出しているのだ。
私は親として、そこに気がついていただろうか。

全然気がついていなかったのではないだろうか。

表面的なストーリーの良しあしや、文章表現にばかり目がいってたのではないだろうか。

手芸は無心でいられたけれど、では読書は?作文は?
私の尺度があったのではないだろうか。


この絵本を書いた年齢では、まだ本はそこそこ読んでいたと思う。
私は確かに、何も言わなかった。
「読みなさい。」とは言わなかった。

でも、「こんな本を読んでほしい。」と思う姿勢は、確実に娘に伝わっていたのでは、といまにして思うのだ。
娘も何も言わなかったけれど、無意識に違う世界をひらいていったのではないだろうか。

ああ、私のエゴに負けないたくましい娘でよかった。
友だちとのおしゃべりや、学童でのもまれた生活。テニスを通しての、いろんな学び。NPOの活動で出会った、たくさんの異年齢のつながり。
そんななかで、彼女らしくのびのびと育ってくれたことに今さらながら感謝し、私の出来たことのなんと少ないことだろうと思った。


時間がたって、見えることもある。
特に我が子のことは、見えない。
全然ピントが外れて評価する親のもとでも、子どもは育っていってくれるんだな。

いまさらながらだけど、あなた、とてもいい絵本です。
とても、あたたかい文章です。
これは、あなたにしか出せない味です。


私は当時の幼い娘に、遅ればせながらそう言ったのだった。