内なる声 内なる耳

お互いに話していて、「うんうん。わかる、わかる。」「こういうことだよね。」
相手は、「こういうこと」の例をあげた。別の言葉で言い換えたのだ。
その中身がしっくりこない。
さっきまで共有してたものが、すっと離れていった。
あれ、わかると思ったのにな。

これは、やっぱりわかりあっていないということだろうか。


途中まではわかりあっていると感じていたのに。
言葉は難しい。

見合う言葉を一生懸命たぐりよせようとするけれど、自分の口からは「なんか違う。」
こんな言葉足らずないい方しか出来ない。


気持ちは同じなのに、そこに見合う言葉を探り当てていないだけなのか。あるいは、見ているものが少しずれてしまっているのか。


言葉と気持ちが出来るだけぴったりくるように、そこは丁寧に向き合いたい私。
そのために、時に頑固になり、融通がきかなくなる。

なかなか生きづらい私。

けっこう長く生きてきたのだけれど。
全然変わってないんだなあ。


こんな日はジブラーンの詩を読もう。
神谷さんは、ジブラーンを訳しながらずっと対話していたのかな。
未熟な私にはまだまだ遠いものもあるけれど、この詩を読むと「内なる声」と「内なる耳」を信じなさいと叱られ、また励まされるように感じる。


     
      しゃべることについて

  しゃべることについてお話を、とある学者が言った。
  彼は答えて言った。
  心が平和でなくなったとき
  あなたがたはしゃべる
  心の孤独に耐えられなくなったとき
  あなたがたは唇に行き
  唇は気散じと慰みになる
  おしゃべりの多くの中で
  思考(かんがえ)は半ば殺される
  思考は空間(スペース)を必要とする鳥だから、
  ことばの籠(かご)の中では羽をひろげるだけで、
  飛び立つことができない。


  ひとりで居るのを恐れて
  話好きの人を探し求める者がある。
  ひとりで黙っていると、裸(はだか)の自己が見えるから
  それを逃げたいと思うのだ。
  ある者は自分でもわからずに、
  知識も予感もなく話しているうちに、
  ある真理をあきらかにすることがある。
  かと思うと、内に真理を抱きながら
  ことばで告げない者がある。
  彼らのうちには、リズムある沈黙をたもって
  精神が宿っているのだ。
  道端や市場で友だちに会うとき、
  あなたの内なる精神に導かせて
  唇と舌を動かしなさい。
  あなたの声の内なる声に
  友の耳の内なる耳に語らせなさい。
  なぜなら友の魂はワインの味をおぼえるように
  たとえ色が忘れられ、器が失(う)せた後でも
  あなたの心の真実をおぼえつづけるだろうから

     (「ハリール・ジブラーンの詩」より
          神谷美恵子/訳   角川文庫)