わかりあえなくても

人とつながっている中で、自分のやりたいことが実現出来たらこの上ないが、いつもそれが理解されるとは限らない。
相手との立っているところの違いや、自分のひらめきだけで言葉をまだ獲得していない時は、なかなかわかってもらえない。
ひらめきの喜びとは裏腹に、伝わらないもどかしさが心を巣食う。

わかってもらえなくても、とにかく信じるものを追求していくことが出来たら…と思うのだが、不安が先に立ち、時に中途半端に意見を下げるような情けないことをしてしまう。

それは言いかえると、「ひとりで立ちきることが出来るか」ということなんだと思う。


そしてさらに言うと、「信じているものが、本当に信じるに値するものだと自分でわかっているのか」なんだと思う。


私が「ルピナスさん」の絵本で一番好きなのは、ミス・ランフィアスがルピナスの花のたねをポケットに入れて、村のあちこちにまいてあるくところだ。
若い頃は過ぎて、髪の生え際も白いものが見えるミス・ランフィアス。夢遊病者のようにも見える。
彼女を遠巻きに見ている男の子たちや、畑を耕す人。
みんな怪訝そうな様子だ。
ミス・ランフィアスが、なぜそんなことをするのかわからないからだ。


「そんなミス・ランフィアスをみて、あたまのおかしいおばあさんという人もいました。」と、文章は書かれている。


あたまのおかしいおばあさんと言われても、全然かまわないのだ。
それよりも、おじいさんと幼い日に約束した「世の中をもっと美しくするために、なにかする。」を果たせる喜びにあふれているのだ。


一生かけてすることに巡り合ったしあわせ。



そんな喜びを体中にかけめぐらせたミス・ランフィアスの姿と、「あたまのおかしいおばあさん」という形容が、読むたびにぐっとくる。



私は「あたまのおかしい人」と言われても、「これだ!」と思うことにのめりこんでいけるだろうか。
ひとりで立ち続ける強さを、育むことができるだろうか。



ミス・ランフィアスは次の年の春に、村じゅうをルピナスの花でいっぱいにする。
学校のまわりや教会の裏、くぼちや石垣沿いまでも、ルピナスは美しく開く。

このお話は、ミス・ランフィアスの思いは形となり、みんなに理解され、また小さな女の子アリスに「美しくするために、なにかするのだよ。」と語り、「いいわ。」とアリスがメッセージを受け取るところで終わる。


現実は、ここまで結末がやってくる(見える)とは限らない。
「あたまのおかしい人」と思われたままでいくこともある。

ひらめくまではすごく苦しい。すごくすごく闇の中にいる。
光が見えた時、なぜ人はその光の輝きよりも言葉を先に求めるのだろう。
光そのものを見てくれないのだろう。


ううん、でも違うな。

人はどうでもいいんだ。
光を自分で追い求められるか。
わかりあえなくても、そこに光があると喜べるのか。
そこなんだ。


ルピナスさん −小さなおばあさんのお話ー」
 バーバラ・クーニー/作 掛川恭子/訳  ほるぷ出版