余韻を楽しみながら、思い出したこと



ステフィとネッリの物語の2〜4巻をようやく読み終えた。
余韻にひたって、いま漂っている感じ。

ホロコーストの手記や物語はいままでにも読んできたが、主人公が難民で両親が収容所という設定は初めてだったのだが、収容所にいるいないにかかわらず、育ちのなかで大きく傷を残したのだということがかえって強く伝わってきた。


小学校4年の時に、私は友だちに物語版の「アンネの日記」を貸してもらった。表紙はアンネの、あの彫りの深い顔があった。
読み終えた私は、怖くて表紙がさわれなくなってしまった。
指先で本の先っぽをつかんで、裏側に向けたのを覚えている。

そしてその夜、夢を見た。
大きな工場で、ベッドを生産している。
その中は空洞になっていて、どうも人間が隠れるように作られている。私も、その中に入るようになっているのだった。


おそらく隠れ家の強烈な印象が、そんな夢に発展したのだろうが、しばらくは私にとって「ユダヤ人」「アウシュヴィッツ」「収容所」は思い出したくないキーワードになってしまった。

なので、原本の「アンネの日記」を読んだのは中学か高校になってからで、ずいぶん遅い。
でも、それからは結構読んできた方だと思う。


なぜ自分が読みたいのかは、はっきり考えたことがないのでわからないけれど、人間が犯してしまう悪に対しての「なんでだろう?」という気持ちが大きい。
よく司書仲間でも、戦争やいじめなどの本についての交流をすると、
「こういうテーマは重いから苦手。」
と言われる。

私も、「得意」じゃないのは確かなんだけど、うまく言えないので黙っている。
苦手なのと、手がのびて求めてしまうのとは、反対ではないんだけどなあ。得意だから、好きというのでもないし。

このアニカ・トールのシリーズは、そういう意味では直接の収容所体験ではないので、苦手な人には読みやすいと思う。

でも、結局書かれていることは同じだと思う。

表に出てくるか、後にひかえているかの違いだけなのだ。


訳者の菱木晃子さんが、どの巻にも丁寧なあとがきをつけていて、当時の政情やスウェーデンの一般市民の生活の様子、ナチスによるユダヤ人迫害の歴史をわかりやすく補足しているのに誠意を感じる。

ステフィの友だちの1人、ユデイスの結末がとてもつらい。
ユディスの両親や姉は、こうなることなんてひとつも望んでいなかっただろうに。
収容所行きから逃れても、菱木さんが触れているとおり「戦争のいたましさ」は多くの子どもたちにいやおうがなくふりかかったのだ。

中学生から読める内容なので、ぜひ若い人にも読んでほしいけれど、ステフィやその友だちの成長物語でもあるので、大人も自分を振り返って読むに値するすてきな小説だと思う。

何よりも、いろんなつらい現実に押しつぶされそうになりながらも、人間のなかにある多様性を認め、そのなかの良い面とつきあおうとするステフィがいい。
好きだなぁ、と思う。


それと、表紙の絵がとても素敵だった。

イラストレーションは「Shigeko Nakayama」と書いてあった。
文中に絵が一切ない分、この表紙に触発されいろいろ思い描けるのがよかった。