夏休みの読書③

今年も行ってきました。夏の恒例、古本市。
今回は児童書を寄贈していただけることになり、その選書も兼ねていたので少々仕事モードになり純粋に楽しむまでにはならなかった。
でもこんなものを見て、懐かしさとともに「これが、古本市なんやなあ」となごむ。
百恵・友和ですよ。好きでした、あなた?
赤いシリーズ見てました?


さて、図書館で借りた竹崎有斐の「花吹雪のごとく」。1980年発行。
戦争に突入していく直前の時代に中高生として過ごした少年物語だ。
前回の「忘れられた兵隊」とは違いまだ軍隊に入る前なので、その分明るさと思春期の若者の群像が生き生きと描かれている。

あとがきで竹崎さんは、主人公を取り巻く人物のモデルとして、実在している2名がいるとしている。そのお二人ともが、竹崎さんの青春期に深くかかわった方々で、作家というのは作品のなかでこうした人たちをどう受け止めたかをいろんな表現で表していくのだな、と思った。
二人とも、自分の生きる道をはっきり見定めているが、他人にそれを声高に説明しようとしない。生き方として日々実践しているだけなのだ。
でも、この時代にそう生きたのは大変なことだ。
物語はパールハーバーの直後で終るけれども、そのあとお二人はどう生き抜いていったのだろう。特に、医師でアララギの会員だった平野さんは、すでに特高にマークされている。どうか生きておられますように。教会牧師の三山さん一家も(特に健太郎君のその後が気にかかる)同じくだ。書かれていない物語の続きを、まだ考えている私がいる。

主人公の恭平にしても、竹崎さんは自分自身ではないとしながらも、「自伝小説ではないというだけであって、思いを仮託した点では私自身かもしれない。」と言っている。

熱血漢だが、同時に冷めた目を持つ主人公の友人に、見た目や表面的な印象とは違い、自分の思いに純粋な井田。そして、頭が切れ権力を嫌い、常に物事の欺瞞を見抜いてしまう根津。
この二人を登場させる。

二人がいることで、恭平のどっちつかずが際立ち、それゆえに悩む姿に人間らしさが出てくるように思った。
とにかく、恭平は忙しいのだ。いい気になって論じたと思ったら、すぐ落ち込み自分なんてなんだと自己批判する。と言ってると、井田を見下げて考える。そして、井田の純粋さを見てとり、また反省する。
また、根津の冷静沈着ぶりを時にうっとうしく思いながらも、大事な友として存在させている。
落ち着きのない、あれこれ動いては頭を打たれる恭平の感性の生きの良さに、周りが巻き込まれていく。


後半出てくる、小田島先生が忘れがたい。
自分が間違っていたら、生徒にあやまれるか。
教師は、子どものなにを守ってやらないといけないのか。

そんなことを考える。


こんな本も、あんな本も、み〜んな閉架図書だ。
これでいいのか。
いいはずがないよな。

夏休みの読書②

昨日のニュースで、ヒロシマナガサキ原爆の日を知らない若い人が多いと言っていた。何パーセントかははっきり覚えていないが、答えられる人は半分にも満たなかった。

昨日は日曜日ということもあり、例年よりナガサキの原爆の報道をよく見たように思った。
恥ずかしいことながらヒロシマの8時15分というのはすぐ出てくるが、ナガサキの11時2分というのは8月9日は知っていても何時何分まではおぼつかない。
原爆の被害を受けたのは同じで、こうして知るということは大事なことだなあと、反省も込めて思ったのだった。

夏休み読書のつづきは、「五十年目の手紙」(長崎源之助・作 山中冬児・絵 ポプラ社)。

これは1996年に書かれた、ヒロシマの原爆で亡くなってずっと幽霊でいた女の子の物語だ。そして、女の子に出会って原爆の事実を知る男の子の物語でもあり、かつて少年だったおじいちゃんの物語でもある。おそらく戦後50年を迎えて長崎さんが思い、書かれたのだろうが、戦後70年の今でも変わらずに伝わってくるものがある。


お父さんの転勤で京都から広島に引っ越しした弘は、近所の女の子に案内されて平和公園に行くために広島のヒロデン(広島電鉄)に乗る。
そこで、途中で乗り込んできた女の子に「チロちゃん!」と声をかけられる。
人違いだという弘に、女の子はあんまりそっくりだったからといい、自分が広島に越してくるまで京都で一番仲良しだった子に似ていたからだと話す。
京都のどこかと聞くと、女の子は地名を出す。弘は自分の住んでいた町名だったので、驚く。学校は、と聞くと、自分の通っていた小学校名うを答え、さらに4年2組と答える。弘は驚く。自分も4年2組だったからだ。
女の子がうそをついてると思い、とっさに弘は「うそ!」と言ってしまう。女の子はぷいとふくれて、降りてしまう。

そのエピソードの出し方に無理がなく、引き込まれてしまう。
同じクラスで同じ学校名(正確には、女の子は学校名のあとに「国民学校」と続けたのだが、弘にはそれはわからなかった)を語られると、絶対うそだと弘は叫んでしまう。子どもには、それは大きな違和感である。

そして、話は思わぬところに発展する。
弘は、京都でかつて同居していたおじいちゃんと話していて、ヒロデンには京都から移送したでチンチン電車もあるのだと伝える。するとおじいちゃんは、そこに魅力を覚え広島に訪ねてくることになった。
おじいちゃんは、広島への引っ越しを拒み、そのまま京都で暮らしているのだ。
チンチン電車に乗りながら、弘は話ついでに女の子のことを話す。

するとおじいちゃんが、意外な返事をする。
なんと、子どもの頃おじいちゃんは「チロちゃん」と呼ばれていたことがあったらしいのだ。
そして、ユリちゃんという女の子との触れ合いを話してくれる。
そのユリちゃんは夏休みに引っ越してしまい、手紙をくれるといったのにとうとう来ないままで今に至るという。
おじいちゃんも今まで忘れていたが、こうして電車に乗っていると思い出したのだと。

そこからの展開が、心をうつ。

おじいちゃんの人物造形がよいのだ。
おじいちゃんは、弘が戸惑うくらいにユリちゃんの存在(幽霊としての存在)を認める。むしろ、積極的に会いたいと思ってるようだ。
そして、もう一人の名脇役の「しあわせばあちゃん」にいたっては、ずっとユリちゃんの幽霊と話していたという。

しあわせばあちゃんは、原爆で幼い我が子と夫を一瞬のうちに亡くしてしまった。個人の悲しみを、必死に平和への思いに変えて一生懸命に生き抜いてきた人なのだ。


しあわせばあちゃんとおじいちゃんの背景は違うけれども、その姿勢にはそれぞれの悔いとせつない願いがあり、戦争への憎しみと平和への願いが一貫している。


私は、特に一見自由きままに思えるおじいちゃんを身近に感じ、面白かった。ユリちゃんから手紙が来ないことを、少年の子どもっぽい一途さ故に裏切られたと思い、それ以上確かめることもせずに50年たってしまった。
わかった事実に真摯に向き合い、おじいちゃんの中に少年の「チロちゃん」が見え隠れする。それが、とてもよい。また、孫の弘がそんなおじいちゃんをじっと見つめている。
こうして人は、情緒豊かに育つのかな、と思う。

これを書いた頃の長崎さんは、おじいちゃんの年齢に近かったと思うが、おじいちゃんを生きた瑞々しい人間として描いているのが、この本の魅力なのだ。
そのおじいちゃんが、当時のユリちゃんの境遇と気持ちをわかってやれなかった後悔が、しあわせばあちゃんとの出会いによってさらにつきつめられ、行動へと動かしていく。


山中冬児さんの絵もよい。
灯篭流しの時にユリちゃんがあらわれる絵には、涙があふれた。


人と人は、実際に話をしてつながっていくしかない…それなしには伝わっていかないな。
そうかみしめながら読んだ。

夏休みの読書

夏休みは、目的のない読書を楽しむ期間にしているのだけど、ただこの時期は戦争の児童文学を手に取るようにしている。
特に今年は、積極的に読みたい。
そんな気持ちになっている。

私の好きな竹崎有斐の「にげだした兵隊 原一平の戦争」(岩崎書店

題名から、主人公の原一平が脱走兵の話なのかと想像していたが、違った。

昭和18年末に入隊し、国内の飛行兵として勤務。のちに終戦を朝鮮で迎え、2か月後に釜山から復員船で日本に帰れることになる。
それまでの2年間の軍隊生活を描いたのがこの物語である。

竹崎さんの自伝的なものもあるのかわからないが、私は今まで親しんだ竹崎作品の登場人物たちが戦争にまきこまれたらこうなるのか、とつい思ってしまった。
生きるセンスのようなものが一平にはあり、もちろん運もあるのかもしれないが、とっさの判断力と人間性が関係しているように思える。

でも、そんな一平でもやはり苦しむことになっていく。
運がよくいろんなことをくぐりぬけてきたはずなのに、それで心が晴れ晴れすることはない。その時々で一瞬ひるんだ自分やごまかしてしまった自分を、何度も思い出す。
どんな人も無関係でいられない。誰もを巻き込んでゆく。それが戦争なのだと、思った。

ここにも犬が出てくる。

復員船に乗せてもらえず犬だけ置いていったはずが、つなを切ってきたのか奇跡的に同乗出来た場面がある。

犬の物語をたくさん書いてきた竹崎さんだけに、この場面がせつなくあたたかく感じた。

重い事実の積み重ねの話のはずなのに、一平のおおらかなどこか抜けた感じが笑いをさそう。それが竹崎さんの作品の魅力そのものなのだと、あらためて思った。


最後まで読み終わると、題名が重くのしかかる。


軍隊で一度もなぐられずに済んだ一平が、はげしく顔をなぐられる。

竹崎さんの感情を抑えた、かみしめるようなあとがきとともに、逃走したひとりの兵隊と、特攻隊で出撃出来なかった兵長、そして一平。

それぞれの心の内を思い、いろいろと思う。


1983年出版。

つぶやき

「まれ」を見ていて。


元パティシエの祖母がまれに言う。
みんなから、おいしいと言われなくてもいい。
自分がおいしいと思う味を見つけなさい。

どんなパティシエになるか、いつか決めなければいけない時がくる。

みんなに認められることを気にして、唯一無二の自分を見失うことの方がこわいことだよ。

職人は、個の確立が何より大事だからはっきりするのだろう。


でも、まれはまだ20代。

この言葉を聞いて、胸がキュッとなる私はもう人生折り返しを過ぎている。
遅い成長だなあ。

みんなから、おいしいと言われなくてもいい。


頭では充分わかっていて、口にすればすらすら言うことだって出来る。

でも、ほんとにそう思ってる?

どんな司書になりたいの?

ほんとは、よい司書を目指してるの?

私は、こぼれていくものの方がやりたいんじゃないの?


心ない一言を、いつまでも払しょくできない情けない自分。
ちっぽけな、自分。


金子光春の「おっとせい」に励まされ、ひとりでも生きてくんだとうなづいた16歳の女の子は、どこにいったんだろう。



胸につきささった、朝の言葉。

家族のいろんなかたち

読む前は、なんの秘密の一週間なのかと全然別の想像をしていた。
こういう一週間だったのか、と一気に読んでふうっとため息が出た。

これは、満足の吐息だ。
島へのバカンスで、いろいろと思い描いていたものとは全く違うことに遭遇してしまったサミュエルだが、でもなんという豊かな一週間だったのだろう。

シングルの母に育てられ、ひょんなことから顔を見たことのない父の名前を知ることになったテスが、父に会いたいと思ってしまう。
テスが生まれたとも知らない父にだ。

子どもらしい?度肝を抜く?計画を次々と立てて、サミュエルを巻き込んでいくテス。
普通一般の家庭に育ったと自分でも思っているサミュエルだが…テスを筆頭に島でいろんな人に出会ううちに、家族についていろいろと考える。

そして、サミュエルの家だって普通?
普通ってなんだろう。
ひどい片頭痛に悩まされ、でもそれを受け入れて頭痛があるからこそない時をかみしめて生きる母。そんな母のことを本当にわかっていただろうか。
成績がふるわず、乱暴で単細胞な兄。
でも、やたら頭の出来のいいサミュエルと比較するからであって、兄は兄なのだ。兄の中に、繊細な感性がないなんて誰に言える?

島の87歳のおじいさんとのかかわりも、心に深く残る。

テスの母は彼を愛し、愛したからこそ中絶せず出産する形をとった。生んだことを悔やんではいないし、テスにもそれは伝わっているからのびのびとしているのだろう。
父ヒューホの人物造形もよい。
ヒューホの恋人もすてきだ。この人がこんな人でなかったら、すべてはうまく回らなかった。

現実には、こうはいかない事例もたくさんあるだろうし、実際にこんな境遇にある子どもや親は、こんなもんではないと言われるかもしれない。

でも、子どもの文学らしい、前を向いて生きるきらめきに満ちた物語だと思った。従来の家族の解体や多様さが著しい昨今の現状を描きながら、読後感が前向きになるのは作者の力量だ。

まだ若い作家らしい。もっと日本語訳がされてほしい。

こういった本は、どう紹介するのか。
ここに、苦心がいるんだよな…
言いすぎてもいけないし…ただ黙っておいておいても読んでほしい子のもとには届かない。
「秘密の七日間」の楽しそうな題名にひかれて、低学年や中学年が手に取る本でもない。

しかるべき子にいくように…。
目下の私のテーマでもある。

「ぼくとテスの秘密の七日間」(アンナ・ウォルツ/作 野坂悦子/訳 きたむらさとし/絵 フレーベル館)。

テレビを見ていて

テレビで、岡山県立図書館が放映されていた。
タレントたちが「すごい!」「図書館に行きたくなる」と連呼していた。

書庫は前に見学した国立国会図書館(関西)のようになっていた。この本が読みたいというとカウンターで検索してくれ、書庫のものは機械操作ひとつで連絡がいく。全体のなかで自動操作(人間じゃなく機械が選択し、かごに入れて運ぶ)が50パーセントくらいだったかな。
あとは人間が探すのだが、テレビでは職員の人が依頼を聞いて書庫のなかをダッシュしていた。その人は「やっぱり待たせてはいけないから」と答えておられた。
普通の依頼なら、3分くらいで現物がカウンターに届くのだそうだ。

そして「イメージレファレンス」と呼ばれていたが、利用者が読みたいのだがイメージだけで具体的に何を借りていいのかわからない、というのをレファレンスするサービスを紹介していた。
人文、歴史、科学、児童書などジャンル別の司書を取りそろえ、利用者の好み以前借りた本の傾向などを聞いて、本を紹介するのだそうだ。

利用者の声は、「自分でさがすのが大変だから助かる」「(図書館は)アミューズメントパークのようなところ」と言っていた。
実際に利用率は大変高いらしい。開館前から、人が列をなしているのが写っていた。


私が思ったのは、まず普通の時間帯のエンタメ番組に図書館運営が特集されてることがびっくりだった。注目されないより、された方がよいに決まっている。行政が予算を大幅に投入しないと、こんなことは出来ない。それだけでもすごいと思う。
生涯学習に図書館利用がなくてはならないのは、今や市民のなかでかなり浸透してきているのではないだろうか。
知的公共財産を、市民がうまく利用し生かしていく。
雑誌や音楽CD・DVD、映画など趣味の分野も、入り口として図書館があれば文化を享受する機会は増えるのだ。


もう一つは、多分これを見て一般の人と図書館関係者が感じることは開きがあるだろうなと思った。
日々フツーの図書館で地味に業務を誠実にこなしている職員たちにも、スポットが当たるにはどうしたらよいのかな。
学校図書館だって、「イメージレファレンス」やってるんですよ。
ほぼ、いつもやってますね。
でも、こんなことは目立たない。全校児童の読書力の底上げにはすごく関係してると思ってるけど(私はね)、読書集会や貸し出し冊数やそんなことにくらべると誰も評価してくれない。
で、学校の場合はサービスになったら教育じゃないと私は思っているので、「なんかな〜い?」「なんか先生さがして〜」という子らに紹介しながら(それこそ、日頃の様子・好み・読解力などをリサーチして)、最終的には自分で探し選ぶことが出来る力をつけるのを目標にしている。
誰かがいないと探せないままに、大人になってほしくない。本の楽しみは、自分で見つけるものだと思うから。その喜びを知ってほしいから、イメージレファレンスするんだけどさ。

そこがね。

サービスって、どこまでいくのかな…と。

公共図書館学校図書館は、もちろん違うのだけど。


工夫や改善をしなくてもよい、ということが言いたいのではないよ。
そうじゃないのだけど、図書室内のビフォー&アフターだとか、ビブリオバトルだとか形に見えるものが優先されもてはやされるのに、どこか不服な私がいるのだろうか…。

古きよき本 いまもよき本

図書室にあるポプラ社文庫をこのところ読んでいる。
最近、昭和の本にさかのぼってばかりいる私。

図書館でも、閉架のものを出してもらってばかりだ。

「のっぽビルのでぶくん」(大石 真)より「へんな一日」

タケシが、朝教室に入っていこうとしてふと廊下の温度計を見ると3度をさしていた。「フン、三度か。三度じゃ、さむいわけだ。」と思ってると、始業のベルが鳴り、三人が欠席だったことがわかる。
「今日は三度だから、三人休んだのかしらん。」
それからその日は、タケシの身の回りに「3」に関係したことが次々と起こる。
次もそうかな、と思うとやっぱり。
その起こったことがいかにも子どもが出会う出来事で、それが面白い。
あるある、こういうことってあるよな…と思わせる。

昭和30年の作品だって。全然、いまも通じる感覚だと思うよ。
こんな話、いまの本になかなかないんだもんな。


「馬ぬすびと」(平塚武二)より「われた茶わん」

われた茶わんが捨てられていて、ひとつのかけらにはラッパふいてる犬の絵が。もうひとつのかけらには、ダンスしているねこの絵が。
茶わんがわれて、二匹は離ればなれになった。

いままでは、ラッパふいてダンスして二匹は楽しくやっていたのに、それがかなわなくてつまらない。一匹だけでは味気ない。

本物の犬に茶わんのねこは「ラッパふいてください」と頼み、本物の猫に茶わんのいぬは「ダンスをしてください」と頼むが、どちらもごはんつぶひとついてない茶わんなんか興味ないとすげなく去られる。

二匹は、あんな犬やねこが本物なら自分たちは絵の中の犬やねこでいい、と思う。


ほんとにかわいらしいお茶わんが、目に浮かぶなあ。
なんともいえない可笑しさと、本物の犬やねことの会話がよい。
一読して、声をあげて笑ってしまった。

もちろん、表題の「馬ぬすびと」は素晴らしいし、それが高じて「玉虫厨子の物語」も読んでよかったけれど、この幼年童話での感覚が私は好きだな。


このふたつの話は、子どもたちに語ってあげたいと思う。
ほんとは覚えて語ったら、もっといいんだけどねえ。